ふづきです。
束の間の晴れ間に注ぐ陽射しに、この前晴れたのはいつだったかと考える。敷布団の湿気り具合を顧みると、かれこれ月を数える方が早いほどの時が経っていたことになる。晴れを探しに旅に出ることを、見えない力に抑えられそうになり、必要なことを問われると、類のない未来なはずなのに、なぜか型に嵌った答えが積み重なる。
決めることで落ち着く習性のある生き物は、無の空間ではどうなるのだろう…。初めは何もなかったことを、何かあることが前提になるのはいつからで、経験という判断は、それを根拠にしたがる。つくづく、不思議で面白いなと、問いのない答えに、答えのない問いに言葉を投げかけてしまう。湿気り過ぎた考えは、きっと、温かさを求め、されど、日陰では動力を見出すことができずにいるに違いない。
だからなのか、嫁の旅は自分を乗せて、自分の足で嫁と共に。出来る時に出来ることを精一杯。出来ない時には出来ることをするために。常に原点と未来の風通しを良くし、ふたりには元々前例なんてないわけで、何が正解かを考えるのはもう辞めて、何が本当にしたいのかを追い求めること。旅は旅でも、旅違い。そんなわかるようでわからない、ふたりだけの共通意識。手を繋いだら、前へ。何にもない、何にもしない、そんな旅が結局のところ、一番の楽しみと幸あることだと気付いて…。
旅の原点
嫁のさつきに手を引っ張られ、事の発端は夜勤明けの疲れを癒すことだった温泉通い。サプリメント漬けで自称健康マニアだった自分は、週一で「なんか体が…だるいんだよね」と言うのが口癖。健康グッズに費やすお金は食べ盛りの食費を超えるほど。自分で自分を律することなんてするはずもなかった十数年前。ギャンブルとサプリメントという、2大巨頭を両手に従い、さぞかし優雅な華を散らせてきたことか。メンタル不健康まっしぐらだったのは言うまでもありませんが。インからアウトの世界へ連れ出され、拒絶反応はいつしか受容を覚え、当たりを引く快楽から、新たな知識を体験し共有する悦びへ。井の中の蛙とは、このことを言うんだなとしみじみ感じたことを思い出します。
共同浴場巡りへ
温泉を知ると、もっと効く温泉はないものかと欲が出ます。当時は、見た目にも名前にもインパクトのありそうな、何にも知らないながらも「源泉かけ流しが濃くて良いに決まってる」と決め込み、条件に見合う温泉地へ…、そう、がむしゃらに通って、巡っていました。その時にいわゆるスーパー銭湯しか知らなかった自分が、共同浴場なるものに出会ったんです。
ビックリしました。怖くて入れませんでした。なぜかって?背中に龍やら華麗な模様が、モノクロだったり色鮮やかだったり、目に飛び込んできたものですから。ドアノブを引いた手で、そっとパタンと、何度も繰り返しました。嫁は痺れを切らし、「入るよ!30分後ね!」と、闇の中へ…。・・・行きますよ、入りますよ、はぁ・・・。じろりと、今にも飛び出しそうな生き物と目を合わせた後、小さな声で精一杯挨拶をすると、「おう、こんちわ!」と、意外なほど優しく言葉を返されました。とにかくメンチ切られないように、丁寧に身体を洗って、元にあったところに桶を戻して、周りと同じように頭にタオルを乗せて、ゆっくりと入る。緊張のあまり湯加減なんかまったくわからず、ひたすら嫁の出る声を待つ時間。大人になってからこれほど長く感じた30分はないだろうと、今でも思います。失礼します…とドアを閉め、重低音の送り出す優しい輩の声を感じながら、嫁に「どうだった?」と聞かれ、「え…、良かったよ!でも人がいない時が良いよ!」と素直に答えたんだろうと思っています。なんせ、目に焼き付いているのは温泉のお湯ではなく、輩、ですからね。苦笑。
共同浴場は、地元の方々の生活の場、時には憩いの場として管理・維持されている共用のお風呂場。一般観光客用に開放されている場所もありますが、地元組合専用だったりするものも。自分ちのお風呂に他人が入るようなもの?初めは、何で家のお風呂があるのに、わざわざ入りに来る人がいるんだろうと、理解に苦しみました。
草津温泉との出会い
草津温泉には「もらい湯」の文化があると聞きます。お風呂のない家庭が、近所の親しい家庭のお風呂に入らせてもらうというものですが、ご近所付き合いの薄くなってしまった昨今では珍しい、古き良き時代の風習が今もなお大切にされているというだけでも、興味をそそります。どちらかと言えば、現代に傾いている自分ですから、醤油や味噌の話は話として知ってはいるけれども、実際に経験した事実ではないですからね。最近まで、実家の玄関の鍵がなかったことは事実ですが…。それだけ、ご近所付き合いがある、いつでも誰かの目がある、と言うことだったのでしょう。
扉を開けると、そこはすでにお風呂場。靴を脱ぎ上がると、脱衣所と浴室のワンルーム。地元の方と思われるおじさんに会釈をし、服を脱いでロッカーへ放る。すでに木の湿気った臭いと温泉の豊満な香りが充満している。嫁とは大体の時間を決め、声掛けできそうな場所ならば、出る前に一声掛ける決まり事をしている。
有名な洋画の俳優に似ている。そんな地元のおじさんが、中央で胡坐をかいている。ここの主だろうか。今度は声を出し挨拶をすると、油断していたからか、思いっきり宙に舞ってしまった。
おじさん「大丈夫か?ここは滑るからな!」
ふづき 「はい、大丈夫です…」
痛みよりも、漫画のように転んだことにとても恥ずかしさを覚えた。だから痛みなんて全く感じなかった。温泉は滑る!身を持って感じた基本。恥ずかしかったので、早く湯船に入ろうと、おじさんの近くの浴槽へ手を触れると…なんだこれ?と思うほどの熱さ。これに入るの?と、ちびちび掛け湯をしていると、「あっちの方がぬるいから、あっちで身体を慣らしてから入った方がいい。あと、掛け湯をするときは、身体じゃなく頭に20回くらいジャブジャブかけること。いきなり入ると、寒くて縮んだ頭の血管に、急に温まった血液が流れ込むからプッツンする!湯から上がる時も、すぐに立つんじゃなく、座ってゆっくり涼んでから立ち上がる。そうしないとクラクラっとして、倒れる。ここで運ばれる人を何人も見たからわかる。みんな入り方をちゃんとしないから、熱くて入れなかったり、倒れたりするんだよ」と、何も知らない自分に、見ず知らずの他人に対して、丁寧に教えてくれた。
おじさんの言うとおりに、掛け湯をしぬる湯に浸かる。入ってから気付いたが、お湯の色が違う。すぐさま声が掛かる。
おじさん「色が違うだろ?温度で違うんだよ。新鮮なお湯がドバドバ出てるこっちは透明だけど、そっちは人が入って湯もみされて温度が下がっているから白く見える。人が入って濁ったってのもあるけどな。」
ふづき 「おんなじお湯なんですか?」
おじさん「そうだよ。同じだよ。」
おじさん「そこに汲んであるのがあるだろ?朝一番で汲んで冷ましてあるんだよ。水を入れたら薄まっちまうから、冷ましたお湯を入れるわけ。そしたらお湯の温度は下がるけど、お湯は薄くならない。」
ふづき 「へぇー!初めて知りました!」
おじさん「熱かったら、それを入れてうめればいい。」
ふづき 「はい。でも大丈夫そうです。」
ぬる湯で温まった後、しばらく湯船から出て涼む。身体からオーラのような湯気が出ているのが興奮を高める。おじさんと無言の時間を過ごす。息が整い、いざ熱湯へ。手だけ、足だけ入れると腰が引けるほどの熱さ。(当時は47℃前後)片膝を着き、周りに跳ねないように頭を下げてお湯を掛ける。タオルを掛けてその上から掛けると跳ねずに、効率良く温めることができるそう。頭だけ猛烈に温まった気がする。乗せたタオルを絞り、軽く髪を拭き、タオルを頭に乗せ、ゆっくりと入る。
「あ~…気持ちがいい~」
手足の末端がピリピリと電気が走るような感覚と、それ以外は動かない限り全く熱さを感じない。これが、身体に温泉の膜が張っている証拠。とうとう、自分は温泉を纏うことができた瞬間だった。嬉しかった。横目におじさんを見ると、さっと砂時計を置く。
おじさん「無理に入ると逆上せるから、時間を決めて入るといい。」
ふづき 「ありがとうございます。」
と言いつつも、3分も持たずに上がることを決める。いやいや、初めて来て、入って、これは無理だろ、と。でも、これは良い!こんなに爽快感がある温泉は初めてだ。こんなに熱いのに、出た後はとてもスッキリして気持ちが良い。不思議だ。
おじさん「この熱さが良いんだよ。この熱さのお陰で、アトピーが良くなったとか、ガンが改善したとかで何度も遠くから来て、何日も泊まって帰る人もいる。ちゃんと逆上せないように頭にかぶって入れば、それが身体に薬になる。」
草津温泉と今
かれこれ、嫁とここへ通い始めてから(通うと言っても、高速で数時間掛けるほどの遠距離)十数年、1年で3万キロ走らせる時もあったほど、夢中になっていた。
今年の初め頃、まだコロナも騒がれていなかった頃。久々に来てみて驚いた。噂には聞いていたが、まさか本当になるとは思っていなかった。
恐る恐る浴槽へ手を入れてみると…
ぬるい…。
決して、普通に入浴する分には入りやすくて適温だとは思います。万人が入浴することを考えれば、それは妥当な判断。しょっちゅう救急車のサイレンを聞いてはいましたから。けれど、けれどなんです。
そこにいつものおじさんの姿はありませんでした。たまたまこの日に来ていなかっただけかもしれません。最後の最後まで、「ここだけは温度を変えさせない!」と意気込んでたのを知っていますから。
常連さんの会話から、
「最近、来る人が減った」
「熱いお湯が好きだったから来てた」
「アトピーや湯治で来てた人は、場所を変えたみたい」
などと、寂しい声をいくつか耳にしました。
自分や嫁も、熱いお湯が大好きで、この熱いお湯に通い続けたお陰で、風邪ひとつ引かない、身体の調子もすこぶる良い状態をキープしてきたひとりでした。草津の熱いお湯ファンとしては、とても悲しい知らせでした。
他の共同浴場へも足を運んで入りました。
ここは白旗の湯(白旗源泉)とは違う源泉(地蔵源泉)ですが…
モヤモヤしながら入っていると、観光客が入ってきました。
観光客「ここは熱いですか?」
ふづき「熱くはないと思いますよ。」
良かったと、安心したようで服を脱ぎ掛け湯をして入ります。しばらくすると、
観光客「入りやすくて良かったですよ!熱いと入れませんからね!」
ふづき「…そうですね。」
これも現実なんだなと、府に落としました。
熱いお湯が好きな人だけ来ればいいとか、正直思った時もあったけれど、観光客で成り立っている温泉地では、その人たちが安心して楽しめる温泉であることにも、目を向けなければならないのだと思います。湯長制度が廃止となり、昔ながらの療養として、湯治場として利用してきた方々にとっては悲しい事実ではあるけれど、草津の温泉としての看板を保っていくためには、もしかしたら苦渋の決断だったのかなと、色々な思いを馳せました。
守るものと変わりゆくもの
嫁に連れられ、湯めぐりを始めた頃は18もの共同浴場が草津温泉にはありました。がむしゃらに、はしご湯をして地元の方々と共にもらい湯をさせて頂いた頃を懐かしく思います。18個、それぞれ個性的な佇まいと浴槽の形。真新しかったり、年季が入っていたり。草津と言ったら有名な湯畑から湧く湯畑源泉、とにかく激熱な西の河原源泉、酸性度が高くこれまた熱い万代鉱源泉、草津の共同浴場で一番有名な白旗源泉、目に良いと言われる(酸が強いので目につけたら駄目ですよ)地蔵源泉、硫黄臭濃く地元民から愛される煮川源泉と6つの源泉からなる温泉地。今では、19番目の共同浴場「碧乃湯」が出来たと聞いていますので、機会があれば入ってみたいと思っています。
どこも地元の方々が管理・維持をされていて、無料で開放されています。しかし、一般開放されているのは白旗の湯、地蔵の湯、千代の湯の3つのみ。他は原則地元の方のみとなっていますので注意が必要です。ただし、草津にはもらい湯の文化がありますので、絶対禁止ではないようです。最低限のマナー(多くのサイトで挙げられている、地元の方々に迷惑にならない態度や行動)と、挨拶!これはどこでも必須です。コミュニケーションなくして信頼はできません。タオルを持たずに入る方や、湯船にタオルをつける方はご遠慮した方が良いです。もちろん、ドライヤー、シャンプー等のアメニティーは皆無なので、気を付けたいところです。
なぜ、自分ちのお風呂があるのにここへ入りに来るのか…。詳しく伺ったことはありませんが、今もなお自宅にお風呂場を設けていないところもあると伺っています。地区でお金を出し合って管理しているのだから、そこで入れば良い。それはそれで理に適っています。自宅は真水だから、温泉に入りたいから入る。いい湯だから入る。そこに温泉があるから。かもしれませんね。
一個人としては、観光客に気持ち良く利用して頂くには、多少なり費用(小銭程度)を負担してもらっても良いのではと思っています。負担しない分、宿泊費や食事代、観光費で負担していることは確かですが…。ただ、無料で開放されているために、気兼ねなく楽しめるメリットはとても大きいと思っています。誰もが「無料なら入ってみようか」となることでしょうし、マナーの悪さは値段に関係ないことでしょうし。
初めて嫁と訪れてから今まで、湯畑周辺の駐車場が広場となり、御座之湯という日帰り入浴施設(有料)が出来たり、多くの共同浴場が建て替えられたり、時には災害で屋根が壊されたり、配管掃除の日が楽しみだったり(ものすごく白濁した温泉に入れる日ですよ♪)、温泉感謝祭に出くわして感動したり(今年はコロナの影響で中止のようです)、当時の天皇皇后両陛下にお会い出来たり…。今でもモノは真新しくなっても、そのものはそのまま維持され、守られてきているのは、観光客が好んで来てくれることと共に、地元の方々が受け入れてくれているからだと感じています。宿泊客しか湯めぐりができない温泉地もある中、温度管理はされてしまいましたが、オープンに開放されていることは凄いことだと思います。「くさつよいとーこー、いちどーはーおいでー」とあるように、もらい湯の文化の他、おもてなしの精神にも秀でている地域なのかなとも感じました。
湯長制度の廃止や、安全な入浴方法として温度管理されたことにより、今までとは異なる客層へとターゲットが変わりました。自分は、従来の湯治として、ありのままの熱いお湯を楽しむひとりとして、楽しみが減ってしまったと感じることもありますが、これからどのように今ある源泉を、共同浴場を維持していくのか、もしくは違う方法で活用していくのか。新たな楽しみが増えたことも事実です。
草津温泉ファンとして、なかなか頻繁に行くことは難しい現状ですが、末永く在ってほしい温泉地のひとつです。
今は、静かに見守っていきたいと思っています。