ふづきです。
朝起きて、ご飯を食べて、仕事に出掛けて、帰宅して、お風呂に入って寝る。一日の流れの中で、目にしたもの、手に取ったもの、口にしたもの、何気なく眺めたもの…、それはいつもの日常で、当たり前で、何の変哲もないものだったと思います。
家籠りもだいぶ慣れてきて、今までとは一味違った緊張感のある毎日を過ごしていると、特に気にも掛けていなかったものが何だか良かったり、当たり前なことがとても大切だったと「気づく」ことがあります。
例えば、テレビを一日中毎日のように観ていると、この番組は無難なことばかりで安定している、こちらの番組は切り込んだ内容で新鮮さがある、あっちの番組は世界情勢と関係なく趣味に特化している、なんてことも。時計代わりに観ていたはずのニュース一つ取っても、忙しかった日常と、時間にゆとりのある日常とでは、全く見え方が違ってきます。それだけ、「気に掛けていなかった」のだろうと、気づきました。
気にも掛けていないと、目に映っているものは何なのでしょうか。人。物。数字や文字。動物。風景。そんな認識なのかもしれませんね。
はじめに
主夫という言い訳を振りかざし、引きこもり生活から脱却を図るために、嫁と外の世界へ足を踏み入れる覚悟を決めました。(だいぶ大げさな表現ですが…ただの散歩です。苦笑)
陽に当たるだけでこんなにも気持ちが良いものだなんて、どれだけモヤシのような生活をしていたのだろうと、少し笑えなくなりました。事実、色白(むしろ青白)なので、嫁から「背中からシャツが出てると思ったら、肌だった!」と驚かれたり、「ホント、モヤシだよね」と言われたりしました。それからは、男らしく?なるために、嫁と共通の趣味である温泉に出掛けるたびに、露天風呂では必ず休憩を兼ねての日光浴を欠かさず行ない、モヤシからモヤシ炒めになるくらい、こんがりしてきたのも束の間。あっという間に青白い肌へ、女性だったら良かったなと正直思うくらいに、日陰生活へと戻っていました。改めて、太陽の有難さを感じたひと時でした。
その日常での、この目に映ったものは、何だかいつもにも増して彩り良く見えた気がしたんです。
目を開けると
嫁のさつきが朝ごはんを作ってくれる毎朝、いつもの音に目を覚ますと、
さつき「起きた?ご飯、いつ食べる?」
ふづき「んん、今食べるよ…。」
いつも見ているはずの天井。
少なくとも、寝る前と起きてからの2回は必ず見ているはず。けれど、きっと、ふいに「天井の色は何色?」と聞かれたら、「え?…白だっけ?クリーム色?…灰色だっけ?」と曖昧になるかもしれない。
さつき「じゃあ、支度するね!」
ふづき「うん、ありがとう。」
天井って、見ているようで見てないのかな、と。
朝ごはんを食べると、そのことすら忘れるくらい。当たり前なんだなと思わされます。
いただきます
目玉焼きって、国民食ですよね。朝の象徴な気がします。
黄身の色が濃いほど栄養豊富やら、餌によって変わるやら色々な情報がありますが、色濃いほうが美味しそうに見えますよね♪それに、目玉焼きの相棒はウインナーだと誰が決めたのでしょうか。相性バッチリですね!
朝はとても弱いので、食欲もあまりないときが多いのですが、このメニューは食べられるので、嫁は良くわかってくれてると思っています。毎日有難いです、本当に。
白と黄色と茶色。色だけ聞くと何のことかサッパリですが、実際見ると、その色でなくてはならない色だということに気づかされます。もし、白身が茶色で、黄身が白かったら…。
外を歩くと
気持ちの良い陽射しを感じながら、嫁と手を繋ぎ歩く散歩道。
外ってこんなにも青々しいと、いつもの日常ではそれほど感じたことはありませんでした。草の匂い、風の音、意識しないとこんなにも香らなかったり聴こえなかったりするものなんだなと、改めて教えられます。
足元を見ると、緑色が生い茂っています。家の中では決して見かけることのない色。その鮮やかさを、当たり前に醸し出している。家籠りの自粛生活で、目に映る色まで自粛していたことを知ることになりました。
信号の緑を青と呼ぶ。その意味を少しわかった気がしました。その後ろにある空の青さは、それとはまた違う青なのだと、言葉じゃない何かに、ほんの僅かに触れた気がしました。
片手に持ちながら
今までの温泉旅に比べたら、ほんの少しの散歩。されど、陽射しを浴びるだけで、少し歩くだけで疲れを感じるくらいに落ちた体力。モヤシのようにシャキッとなるように、気持ちから見直す必要がありそうです。「しっかり食べないと!」と、嫁のさつきは考えて食事を作ってくれます。
赤、白、黄色、緑、茶色…。口にするものって、自然にある色ばかりですよね。自然界で育まれたものを食べるわけだから当然と仰る方もいるかもしれませんが、色だけに注目すると、だからそうなんだ。と、不思議と納得したりします。
疲れを取るには
温泉通いの生活スタイルだったので、普段はシャワーで済ませていました。外出しなくなってから、さずがに湯船に浸かりたいと思うようになり、お湯に浸かることで疲れを癒すことができていたことにも気づきました。
ふづき「たまにはお風呂に入らないとダメだね!」
さつき「でも、家風呂だとなんか違うんだよね。」
温泉の良さを、家風呂との「なんか」で気づきます。泉質でしょうか。温度、それとも雰囲気?
同じ水の色。入浴剤を入れれば香りも効能も、雰囲気も出る。でも、「なんか」違う。
きっと、そのなんかに気づくまで、自分たちの夫婦旅は続くのだと思うし、それからも追及していくのだと、桶の揺らぐお湯の色を眺めながら思いました。
おわりに
朝起きてから夜眠りにつくまで、その日その場所で、見えるもの出会うものは違ってきます。日常がルーティーン化してしまうと、慣れから安心感が生まれます。その代わりに新鮮さが失われます。慣れが悪いものではなく、新鮮さが必ずしも良いわけでもありません。一長一短なものでもあるのかなと、今の日常を過ごしながら感じました。
感覚的な話になりますが、人が普段過ごしている日常で目にしているものは、一体何なんだろうなと、思うことがあります。実は、自分がそれは赤だ、これは青だ、と決めつけているからこそ見えている色であり、モノなのかなと。もっと言うならば、自分が見えているものと、嫁が見えているものが違ったりするのかなと。
気持ちに余裕がある時には、この季節に鮮やかな青さを感じることができ、忙しさに追われているときにはただの風景にしか感じない。視覚と気持ちって、同じものなのかもしれないと、それとなくわかった気でいます。
自分が落ち着いてから、嫁が近くに感じる日々が続いています。
人は鏡と言うように、嫁の姿を見て今の自分があります。
見えているものが違っていたら、違う方向へ歩んでしまうきっかけになってしまいます。鏡に映っているのは嫁であり自分でもある。だから、目を覚ませば嫁がいて、新緑の風を清々しいと感じる。目に映る自然の色を認識し、そこから気づくものは、嫁ありきの日常なんだなと。
色は、自分たち夫婦の日常に彩りを添えてくれていたことに、改めて気づかさせてくれました。
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