ふづきです。
家の中で過ごす時間が多くなると、ついこの間まで夫婦で旅を楽しんでいたことを懐かしく感じます。主婦のような主夫として家事をこなしていると(炊事は専ら嫁のさつきに任せっきりですが…)、あっという間に時間が過ぎていきます。世の中の奥様方は、年中無休で、プラス子育てに勤しんでいる姿を想像するだけで、どれほど大変なのかを痛感します。息抜きしたくとも、今の現状では八方塞がりな中、ストレスばかりが溜まっていくのを、ただただ何もできずに我慢するのはとても酷な話だと思います。
家にいることが楽しくなる!なんて、いきなりそれは難しかったりしますが、一緒にいる時間をゆったりと、安心して過ごせるようになれれば嬉しいですよね。
はじめに
昨年の秋頃、埼玉県の戸田市に行く用事ができました。自分は「行ったことないから、送っていくよ!」と軽いノリで運転手を引き受け、車を走らせます。本当は、大好物の自然味溢れる温泉がない場所への車旅は楽しみ半減でしたが、今思い返すと、来るべくして来たのかなと、アルバムをめくりながら感じていました。立ち寄った『後谷公園』には、今こそ、大切なものがあったのです。
ただ、不思議なのが、嫁のさつきが用事を済ませている最中、隙間時間でふらっと独りで散策したこと。いつもふたりで旅や温泉を共感しているので、この時ばかり、この時のために惹かれたのかなと、そう思わされます。
外出できない時や、ホッと一息つきたい時に、さらっと眺めてもらえたらと思います。
後谷公園
埼玉県戸田市の戸田市文化会館の南側に隣接している公園です。園内には、木々の緑が多く自然の豊かな中に、大小の池や森、広い芝生公園、遊歩道などが整備されています。自然の生物も多く、池には亀やニシキゴイにカモなどの水鳥を見ることが出来ます。近年は美しい青色と黄色の色合いから『渓流の宝石』と呼ばれるカワセミなどを見ることが出来るほど自然が守られています。
※後谷公園(埼玉県戸田市) | 埼玉なびより引用
地図はこちらから
※Googleマップ参照
散策してみる
待ち時間の2時間、ベンチに座ってスマホのゲームでも…。なんて思っていたのも束の間。秋晴れのこの日、青々と茂る木々と、赤々と散りゆく紅葉、そして爽やかな青空のコントラストを目の前にして、「こりゃもったいないな」と、スマホをポケットに滑り込ませます。ベンチ前の池にはカモの群れが、悠々と進んでいます。きっと、池の中では、高速回転しているフィンがあるんだろうと、想像を膨らませます。
地図を見るのも覚えるのも苦手なので、車旅はカーナビ大先生に頼りっきり。公園案内図を眺めるも、「うーん、広いね!」と思う程度。とりあえず、歩いてみようかなと、スマホをカメラ代わりに歩き始めます。不審者と間違わられないように、少し緊張していました。
長く見える道
歩き始めてすぐ、清々しい風と共に、まるでこちらに誘導するかのような小路に出会いました。いきなり広場に行ってしまっては、ハンバーグに乗っている目玉焼きを先に食べてしまうのと同じだと思い、こちらを迷いなく選んだのです。
ただの道って、結構好きなんです。
写真に収めると、何だか絵になる気がして。空と木と道。三役揃ったら無敵です。ただの自然です。されど自然です。それが、散歩の醍醐味だなと、勝手に思い込みながら。
こんなに良い天気なのに、静かで、しみじみ歩ける道。長く見えるけれど、陽射しを感じ、思いに耽りながら歩くと、ほんのひと時の道。何かと同じような道ですね。
考えている人
広場にて。一際寂しそうな、哀愁漂う人を見かけたので近くまで来てみました。
どこを眺めているのか。
何を思っているのか。
何を考えているのか。
聞いてみたい。
もしかしたら、何も考えていないのかもしれない。ただ、腰かけて、ぼーっとしているだけかもしれない。作り手にきっと意図や願いが込められているのだとは思う。その時の自分は、「人生について、深く考えているんだろうな」としか思っていませんでした。
ひと休み
広場に沿うように、歩く道がありました。そこに無造作に、なんだかホッとするような、そんなベンチがあったんです。
他のベンチには、おじさんが腰かけて新聞を読んでいたり、他にはおばさんが友達と仲良くお喋りを楽しんでいたり。ありきたりな、当たり前の風景がありました。
「絵になるなぁ」と思いながら、スマホのシャッターを押す自分がいました。ベンチって、休む、以外にも楽しむことができるものだと気付きました。ベンチの中でも、個人的には木のベンチが一番タイプです。
存在感のあるものがひっそりと
さらに歩くと、木々に覆われた小路に行き当たります。
ちょろちょろと、水の流れに沿って砂利道を歩くと、ひっそりと、存在感のある石灯籠に出会いました。何でこんなところに、と思いつつ、煌々と明るい場所が苦手なのかなと、けれどこんな場所でもなぜか引き立つ存在感は何だろう。と。そんなことを考えながら、木漏れ日の中で、しばし、灯籠を眺めていました。
陽射しと陰
池の傍まで歩いてくると、さっきまで高く昇っていた陽が、少し角度を下げ始めました。
明るく水面を照らしていたのが、一転して暗闇に。陽の明るさでこんなにも印象が変わるんだなと、そう思ってシャッターを切りました。陰ると肌寒い、温かい場所にいたからこそ、余計に寒く、暗く感じてしまったのだろうと思います。
両手を空にかざして
よくある少女の石像。
最初に広場へきた時には、陽射しが高く、考えている人ばかりに気を取られていました。
再度、広場へ戻ってくると、眩い光に覆われた何かがありました。回り込みながら、角度を変えて見ると、それは最初に見た少女の像でした。両手を空にかざして、まるで、元気玉。いや、何かに満ち溢れたような光に、その時は見えたのです。考えている人ではなく、この少女に、太陽のいたずらでしょうか。偶然にも程があるくらい、どんぴしゃりで両手に収まり、少女の中へ。
息を呑むような瞬間でした。
おわりに
少しでも、外の空気を吸ったような気分になれたでしょうか。
部屋の中で、カーテンを開け、窓を開けると、気持ち少し風通しが良くなったりします。
ただの散歩の感想ですが、それだけだったらこの記事を出すつもりはありませんでした。
アルバムを振り返り、あることに気付きます。
「これって、今のことじゃないか」
春めいて、桜が咲き誇り、花見やら観光などの行楽シーズン真っ盛りの今、このような外出自粛せざるを得ない状況に陥っています。
長く見える道は、自分の今いる現状なんじゃないかと。先が見えない、曲がった先は下りなのか上りなのか、そもそも続いているのかすらわからない。けれど、前向きに、颯爽とした気持ちと思いで歩けば、あっという間に過ぎる。もともと長くはなかったんじゃないかと思うくらいに。
この青々とした木々と爽やかな風や明るい陽射しを浴びてるにも関わらず、この考えている人は、どうでしょうか。今の自分には、どうしても辛くとも力強い表情をしているようにしか見えないのです。身動き取れず、こんな舞台が整っているにも関わらず、将来を見据えて、必死に考えているように。身体からは、諦めというか絶望感を感じますが、けれど、その目線は斜め上を向いていて、意志の強さと希望を感じます。諦めなければ何とかなる、そう訴えかけているように思いました。
また、休むことは大切なことだと思っています。頑張っても、頑張らなくても、生き抜くことは楽しいことばかりではなく、疲れることも多いです。だから、時にはベンチに腰かけ、新聞を読んだり、誰かとお喋りしたり、ウトウト夢見心地になったり、ずっと頑張ってきた人なら、丸一日横になって寝てる日があっても良いと思います。そのためのひと休みなんですから。
適材適所って、皆それぞれ違って当然です。大舞台で活躍できる人、舞台裏で縁の下の力持ちになれる人、目立つところが得意な人、一人で作業するのが得意な人、違うからこそひとつのものを作り上げられたりします。今、家の中で、今までできなかったことができたり、できたことができなくなったり、ストレスが不自由さに乗っかりエスカレートしたりしています。簡単に解決できるわけではありませんが、自分が気付かない部分、明るいところでは眩しくて見えなかったけれど、木漏れ日の中でははっきりと見える部分、確かに悪い部分は目につきます。石灯籠のように、いびつで古臭さは確かにあります。陰気臭い場所だと言うこともできます。けれど、なんだかカッコ良くありませんか?自分は素敵だと思い、シャッターを切りました。陽射しが通らないジメジメしたあの場所だからこそ、良さが見えたりします。具体的にはわかりませんが、そこらへんは大雑把でも良いのかなと思っています。
陽射しがあるから陰がある。陰らないと気付かなかったことが、気付けるようになる。それって、今後につながる成長だと思います。毎日晴れていたら、傘なんて必要なくて、作らない。けれど、雨の日もあるから、人の肌も心も潤うのかなと。
そんな希望を持って、前を向いていれば、また明るい陽射しは差し込みます。燦燦と。その明るさは、元気玉のように、周りの人まで元気にさせてくれます。
たった、2時間の散歩から、
アルバムを振り返りながら、
家の中であの秋の空気を感じながら、
ふと、
今と、この長く見える道を眺めながら、
思いに耽って過ごそうかなと考えています。
おうち時間は、嫁と過ごす有意義な大切な機会です。
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夫婦のルーティーンって、なんでしょう。
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季節の移ろいとともに変わるものと変わらないもの…。
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旅する理由がここにあります。
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